ミッドウェー海戦 



 アメリカの空母はその朝、7時に航空機の発進を開始しており、エンタープライズとホーネットが最初に発進させた〔この2艦の司令官スプルーアンス少将は当初9時に発進させる予定だったが、参謀長ブラウニング大佐の強い勧めで7時に発進させた。文献 『世界の海軍史:近代海軍の発達と海戦』 p.213〕。すべての飛行機が発艦して編隊を組むまでに1時間近くかかり、7時45分にスプルーアンスは時間のロスを懸念して、すでに飛行していた爆撃機隊に、雷撃機を待たないで攻撃に向かうよう命令した。その結果、急降下爆撃機隊は2万フィート(6000 m)の高度で目標に向かって飛び、遅れて発進したデバステーター雷撃機隊はそれとは別に目標に向かうことになった。しかし実際には、わずか1500フィート(460 m)の高度で飛行する低速の雷撃機隊が、最短のコースで目標に向かい、爆撃機隊より先に到着した。最初に到着したのはホーネットから来た第8雷撃機部隊の15機で、彼らがどのような飛行経路を取ったのかの説明は、ミッドウェー海戦の永遠の謎の1つとなっている。
  ホーネット雷撃機隊の指揮官はジョン・C・ウォルドロン少佐で、特にアメリカ先住民の血統を誇りに思っていた良心的で自信に満ちた飛行士だった。ウォルドロンは、報告された敵空母の座標に基づいて独自の針路を計算していたが、発艦するとホーネットの航空隊指揮官スタンホープ・リングが、ウォルドロンが計算した南西ではなく、ほぼ真西に彼らを誘導したときに驚いた。無線の封止を破り、ウォルドロンは無線でリングに抗議の声を上げたが、リングは黙って編隊に留まるように言った。そこでウォルドロンは、自分の戦隊全体を引き連れて南西に向けて離脱した。そうしたことで、ウォルドロンは敵の位置への正しい方向に向かったが、彼のその行動は、彼の飛行隊が戦闘機の援護もなく、急降下爆撃機の協力もなく、単独で日本軍機動部隊の上に到着することを意味した。

  アメリカのTBDデバステーター雷撃機の飛行規程は、英国のソードフィッシュやアルバコアと同様で、魚雷を投下するために低空を低速で目標に接近する必要があった。そのため攻撃態勢では、機敏な零戦に対して特に脆弱だった。ウォルドロン中隊の後部座席の銃手が全力を尽くして撃退しようとしたが、零戦は速すぎて機敏すぎ、そしてもちろんデバステーターは魚雷を投下するために安定した進路を維持しなければならなかった。日本機はウォルドロン飛行隊の15機すべてを1機ずつ撃墜し、飛行隊の航法士ジョージ・ゲイ少尉を除いてパイロットと銃手が全員死亡した。ゲイ少尉は沈みつつある飛行機から這い出て救命胴衣を膨らませた。

  わずか数分後、エンタープライズとヨークタウンからの雷撃機が到着し、彼らも零戦に圧倒された。その朝アメリカの空母から発進した41機の雷撃機のうち、艦に帰還できたのはわずか4機だった。そして、その大きな犠牲にもかかわらず、敵艦に命中させることができた魚雷は1本もなかった。ミッドウェー島からの爆撃機も数えると、アメリカ軍はこれまでに94機の飛行機を、日本軍を攻撃するために送り込んでいた。一握りの機を除いて全機が撃墜され、日本の艦船に着弾させることができた爆弾や魚雷は1発もなかった。1942年6月4日(日本時間5日)午前10時20分、戦いに勝利しつつあると南雲は確信していた。ただ、勝利を収めるためには、格納庫甲板での兵器の換装を完了し、飛行機を飛行甲板に上げ、アメリカ空母を破壊するために送り出す必要があった。
  そんな中、南雲の艦艇はどれもレーダーを持っていなかったので、旗艦赤城にいた多くの見張り員の1人が、午前10時22分に空を指さして 「急降下」 と叫んだのだ。急降下爆撃機であった。

米軍急降下爆撃機の攻撃
     ー 3空母被弾
  
  アメリカ海軍の空母部隊の主要な攻撃兵器は、SBDドーントレス急降下爆撃機だった。日本の九九式艦爆よりも頑丈で高性能な機体で、より重い爆弾の搭載が可能だった。搭乗員は2名で、前部座席にパイロット ー これはほとんどの場合士官だった ー そして後部座席に下士官の無線手兼銃手がいた。雷撃機とは異なり、ドーントレス急降下爆撃機は高度1万5000フィート(4500 m)から2万フィート(6000 m)の高さで飛来し、できれば太陽を背にして70度の角度で急降下し、約1500フィート(450 m)の高度で爆弾を投下してから機体を引き起こした。

  エンタープライズとホーネットの急降下爆撃機は、その日の朝、同じ時刻に発進したが、別々の方向に飛行した。エンタープライズ(そして後にはヨークタウンも)の飛行機が南西に飛行した一方で、ホーネットの爆撃機と戦闘機は、既述のように265度のコースで西に飛行した。その結果、ウォルドロンの雷撃機隊を除くホーネットの飛行機は全て、敵空母を完全に見逃してしまった。リングは自分の判断でこのコースを飛んだわけではなく、その場にいた米軍飛行士官の中で最高位のピート・ミッチャーからの指示だったことは、ほぼ間違いない。ミッチャーは朝の偵察報告と情報予測に基づき、4隻の日本空母のうち2隻が他の空母より80〜100マイル後方を行動していると結論づけた。日本軍は実際に部隊をいくつかの戦隊に分割していたので、これは不当な推論ではなかったが、その朝は4隻の空母すべてが一緒に行動していた。その結果リングのホーネット航空部隊は、時に 「行き先のない飛行」 と呼ばれる飛行コースを取って西へと飛び去り、戦闘から離脱した。



     
1943年8月、F4Fワイルドキャット戦闘機の翼の上でポーズをとるクラレンス・ウェイド・マクラスキー中佐。ミッドウェー海戦で、マクラスキーはエンタープライズの爆撃機部隊を率いた。北に向かう日本の駆逐艦を発見した後、北に転向した彼の決断は決定的となった。マクラスキーは飛行士のフォレストグリーン色の海軍服を着ている。
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  リングのホーネット急降下爆撃機隊が北に飛びすぎた一方、クラレンス・ウェイド・マクラスキー少佐指揮下のエンタープライズの急降下爆撃機隊は南に飛びすぎた。これは主に、9時17分に南雲が北に変針していたのに対し、マクラスキーの飛行部隊は予め予定していたコースで飛行したためだ。その結果、マクラスキーが予定していた座標に到着したとき、何もない海しか見えなかった。すでに燃料を半分以上消費していたにもかかわらず、彼は標準的なボックス索敵を開始した。その最中、1隻の日本の駆逐艦が30ノットで北上しつつ、青い海に真っ白な艦首の波を立てているのを見つけた。マクラスキーは駆逐艦の艦長が本隊に追いつくために速力を上げていると推定し、実際そうだったのだが、マクラスキーは爆撃隊をその方向に誘導した。午前10時20分、彼は機動部隊を発見した。

  マクラスキー隊の爆撃機の多くは、日本の空母の中で最も大きい、加賀を攻撃した。米軍雷撃機を撃墜するために低空に降下していた零戦に邪魔をされることもなく、アメリカの急降下爆撃機は一斉に急降下して数発の爆弾を立て続けに加賀に命中させ、格納庫の甲板に積み上げられていた兵器を発火させた。また航空機のタンクを補充するために使用されていた航空燃料も同様に発火した。加賀の長い格納庫甲板に沿って爆発が拡大し、加賀は数分のうちに煙を上げながら炎上する残骸となった。
  32歳のリチャード・ベスト大尉率いるマクラスキー隊の3機が加賀を迂回し、南雲の旗艦赤城を攻撃した。ベストの僚機はそれぞれ至近弾を決め、水中で赤城に深刻なダメージを与えたが、決定打となったのはベストの1,000ポンド(454 kg)爆弾が艦の中央に命中したことだった。その爆弾は格納庫甲板まで貫通し、兵器を満載し揮発性航空燃料で満たされた18機の九七式艦攻雷撃機の間で爆発した。加賀と同様に、一連の二次爆発が連鎖的に火災嵐を引き起こした。通常、空母は1発の爆弾攻撃を受けたくらいでは生き残ることができるが ー 珊瑚海海戦で翔鶴は3発を受けたが生存した ー 特殊な状況によっては、この一撃が致命傷となった。数分のうちに、日本の最大かつ最高の空母2隻が回復不能のダメージを受けたのだ。



    
1936年に撮影されたこの日本の航空母艦「加賀」は、未完成の戦艦の船体の上に建造された。日本とアメリカは1920年代にこのような大型空母をそれぞれ2隻建造した。高い位置にある飛行甲板、比較的小さな艦橋、右舷下方に煙を排出する煙突に注目。
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  しかし、それだけでは済まなかった。マクラスキーとベストが目標に急降下しようとしたとき、ヨークタウンからマックス・レスリーの急降下爆撃機隊も到着した。ヨークタウンの飛行隊はその日の朝遅れて発進したが、マクラスキーのように機動部隊を捜索する必要はなく、マクラスキーとほぼ同時に到着し、南からではなく北東から進入して、空母蒼龍を標的とした。最初の爆弾は蒼龍の前方エレベーターに直撃し、2番目の爆弾は飛行甲板を突き抜けてエンジンスペースで爆発した。蒼龍は、レスリーの言葉を借りれば 「炎の地獄」 となった。わずか5〜8分の間に、アメリカ軍の急降下爆撃機は、日本の第一線空母3隻、すなわち全海軍の大型空母のちょうど半数を撃滅したのだ。
   
飛龍の反撃
    
  日本軍は反撃した。作戦可能な空母は飛龍1隻しか残っていなかったが、それでもヨークタウンへの攻撃を開始した。小林道雄大尉が率いる18機の急降下爆撃機は、6機の零戦に護衛され、ヨークタウンの戦闘機の猛烈な抵抗と激しい対空砲火にもかかわらず、3発の爆弾をヨークタウンの飛行甲板に叩き込んだ。赤城は1発の爆弾で破滅したが、ヨークタウンは3発の爆弾を受けても何とか生き延びた。それには3つの理由があった。1つはアメリカ軍がレーダーを持っていたおかげで、爆撃機の接近を警告し、ヨークタウンの乗組員は燃料ラインを安全に確保することができ、また戦闘機を発進させて、攻撃に備えることができた。もう1つは、日本の九九式艦爆が 250 kg の爆弾しか搭載していなかったのに対して、アメリカのより大型のドーントレスは 1,000 ポンド(454 kg)の爆弾を搭載していたことだ。3つ目の理由は、ヨークタウンのダメージコントロールチームの効率性だった。攻撃戦術への傾倒から、日本軍はアメリカ軍よりもダメージコントロール手順に費やしてきた時間とエネルギーが少なく、一方、迅速かつ効率的なダメージコントロールがヨークタウンを救った。

  その日の午後、日本軍はヨークタウンへの2度目の攻撃を行った。この攻撃は九七式艦攻雷撃機10機によるもので、これは事実上残っていたすべての機だった。飛行指揮官は午前中のミッドウェー環礁攻撃を指揮した友永大尉だった。ヨークタウンを攻撃するために飛龍を発つ前から、友永には自分が戻って来ることはないとわかっていた。彼の機の左翼燃料タンクは戦闘の早い段階で撃ち抜かれており、ガソリンは片道分しかなかった。彼がヨークタウンに近づくと、彼の機はアメリカの戦闘機から数回攻撃された。機が火を吹いたにもかかわらず、友永は海に墜落する前に、魚雷を発射するのに十分な時間機体を安定させた。
  友永隊の魚雷はヨークタウンに2本を命中させ、側面に大きな穴を開け、非常用発電機を破壊した。この大きな空母は26度の傾斜で傾き、エリオット・バックマスター大佐は不本意ながら総員退艦を命じた。それでも、この大型空母は沈没を頑なに拒んだため、翌日バックマスターはこの艦を救えるかどうかを確かめるために有志を募って艦に連れて戻った。しかしとどめの一撃が日本の潜水艦からやってきた。6月6日(日本時間6月7日)午後、ヨークタウンが真珠湾へと曳航されていると、田辺弥八少佐の伊−168が駆逐艦の護衛の隙間から忍び込み、さらに3本の魚雷を打ち込んだ。それで十分だった。ヨークタウンはついに屈服した。

  その時までに、アメリカ軍は日本の4番目の空母、飛龍を撃破していた。エンタープライズからの急降下爆撃機の飛行隊に、ヨークタウンからの孤立した爆撃機数機が加わって、あの波乱の6月4日(日本時間5日)の夕方5時過ぎに飛龍を攻撃した。4発の爆弾が飛行甲板の前部に着弾し、艦の前部全体が破壊された。機動部隊の他の3隻の空母と同様に、飛龍は回復不能なまで破壊された。1日で空母4隻を失ったことは、日本海軍にとって壊滅的な打撃となった。それとほぼ同じくらい悲惨だったのは、日本軍のパイロットと搭乗員110人を失ったことであるが、そのほとんどは飛龍からの犠牲者だった。
    
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  ミッドウェー海戦は、世界史上で最も重大な海戦の1つであり、サラミス海戦、トラファルガー海戦、日本海海戦(対馬沖海戦)と並び、戦術的に決定的であり、かつ戦略的に影響力の大きかったものとして、位置付けられる。1942年6月4日(5日)以降も日本帝国海軍は危険な存在であり続けたが、6ヵ月間太平洋を支配していた機動打撃部隊、すなわち 「機動部隊」 は、翔鶴と瑞鶴の2隻のみに減少した。1942年6月4日朝10時22分から27分までのあの重要な5分間で、太平洋戦域における戦略的主導権は日本からアメリカとその同盟国に移ったのである。

   『海の第二次世界大戦』より抜粋




           
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