| 大和沖縄特攻出撃の日本側 |
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海軍省の中には、いざという時の本土防衛のために大和を引き留めておくべきだと主張する者もいた。また、若いパイロットが沖縄防衛のために身を捧げているのに、海軍の看板軍艦が休んでいるのは耐えられないと考える者もいた。この後者の見解の擁護者たちは、特攻による沖縄防衛計画の正式な発表の際、裕仁天皇(昭和天皇)が「海軍はどこにいるのか?」と尋ねられたとき、天皇ご自身から強力かつ実に抗いがたい後押しを受けた。天皇は単なる質問として尋ねられただけなのかもしれないのだが、日本の海軍士官にとってはそれは顔面への鋭い平手打ちとして効いた。さらに大和を「怠惰で無能な提督たちの浮かぶホテル」と揶揄する者がいたのは耐え難いことだった。草鹿(※龍之介)提督は1人の部下に対し、大和の「評判ゆえに批判にさらされている」から、大和は出撃しなければならない、と説明した。日本軍が沖縄戦に大和を投入したのは、恥をかくことへの恐れからだった。 片道航行分の燃料(その多くは植物油から合成したものだった)だけを持って、大和は瀬戸内海から南へ航走し、沖縄沖の侵略軍に対してすべての弾薬を使い果たし、その後、島に着岸して、3,500人の乗組員が、侵略軍と戦闘中の陸軍に加わる計画だった。しかし航空援護がなければ、大和が沖縄までたどり着けないことはほぼ確実であり、仮にたどり着けたとしても、水兵が大和の甲板から飛び降りて、上陸した米兵や海兵隊と戦えるなどというのは全くの空想であることを、事実上誰もが理解していた。それは意思表示のための行動であり、太平洋の多くの島々における万歳突撃のような、最後の大胆で絶望的な攻撃だった。それを認めた上で、指揮官伊藤整一中将への命令には「これは特攻作戦である」と明記されていた。 ・ ・ ・ 主砲に加えて、大和は6門の6インチ砲(15.5 cm砲)、24門の5インチ砲(12.7 cm砲)、そして162門以上の小型の1インチ(25 mm)機銃を保有していた。巨大な 18.1 インチ(46 cm)主砲も、新しい対空砲弾を発射することができ、これは主砲を巨大な散弾砲に変えることができるもので、砲弾の破片を空中にまき散らすことができた。それら全ての兵器は恐るべきものだったが、それでもアメリカの航空機から艦を守ることはできなかった。アメリカ軍の爆撃機と雷撃機は、連携した攻撃で15〜20分間隔で波状攻撃を繰り返し、大和を攻撃した。攻撃を生き延びた数少ない日本の将校の1人は、「魚雷の銀色の筋を見た・・・あらゆる方向から静かに我々に集まってきた」と回想した。その若い将校は「絶え間なく続く爆発、目のくらむような閃光、雷鳴のような騒音、そして押しつぶされるような爆風の圧力」に畏怖の念を抱いた。 最初の数回の攻撃で、複数の魚雷が大和の左舷に命中し、大和は目に見えて傾いた。多数の爆弾が甲板全体に亘って爆発し、対空砲の筒が空中に飛び散り、艦の上部構造物がねじれた金属の塊と化した。第3波の航空機がさらに5本の魚雷を艦体に打ち込んだ後、艦の傾斜は危険なほどに増加した。伊藤提督は艦の転覆を防ぐために、やむを得ずボイラー室と機関室に注水を命じたが、それはそこにいる兵員を犠牲にしなければならないことに他ならなかった。そしてそれは、当然ながら艦の動力を失い、艦は動けない状態となった。その後、第4波の攻撃が来て・・・・・そして第5波・・・・・さらに第6波。大和の傾斜は最終的に80度まで増加し、艦の運命は明らかだった。転覆したときに残りの乗組員が甲板の下に閉じ込められないように、伊藤は乗組員全員に艦の上部に上がるよう呼び掛けた。そして彼は参謀長と厳かに握手を交わし、自分のキャビンに引き揚げた。午後2時30分頃、艦は爆発した。「巨大な指のような炎が点滅し、暗雲の中に急上昇した」。爆発の煙は上空1マイル以上にまで上がった。その煙は百マイル(160 km)離れた九州からも見えた。煙が晴れたとき、大和の姿はなかった。2時間にわたる航空攻撃の間に、アメリカ軍は10機の航空機を失った。
Naval History and Heritage Command 『海の第二次世界大戦』より抜粋 |